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映画レビュー#46「父親たちの星条旗」&「硫黄島からの手紙」

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記事初出:2007年04月01日 seesaaブログからの引っ越し

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基本情報
「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」(2006、アメリカ、日本)
監督:クリント・イーストウッド(許されざる者、ミスティック・リバー)
脚本:ポール・ハギス(ミリオンダラー・ベイビー、クラッシュ)ウィリアム・ブロイレス・JR(ジャーヘッド)、アイリス・ヤマシタ
製作:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・ローレンツ
出演:ライアン・フィリップ(クラッシュ、ゴスフォート・パーク)、アダム・ビーチ、ジェシー・ブラッドフォード、バリー・ペッパー(メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬)

公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

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2006アカデミー賞音響効果賞受賞、作品賞ノミネート(硫黄島からの手紙

今二部作のDVDです。
 

ストーリーと映画情報
第二次大戦中、最も過酷な戦いと云われる硫黄島での戦闘をアメリカ、日本側の双方の視点から描いた二部作。栗林中将が赴任してから援軍もないまま、孤立無援で命を賭して島を守り抜く日本兵の壮絶な戦闘を描く「硫黄島からの手紙」、硫黄島が陥落した後、擂鉢山に星条旗を掲げる瞬間の写真にたまたま写っていた兵士達が、戦費調達のためのプロパガンダに利用されていき、その歪んだ現実に苦悩する様を描いた「父親たちの星条旗」。
アメリカ映画界の御大イーストウッド監督による、傑作戦争映画。

同じ場所で生まれる別種の理不尽
有史以来、戦争の無かった時代はありません。いまでも世界では各地で戦争は行われています、だれもが悲劇しか生まないと知っているのにも関わらず。戦争をするには、当然、相手が必要です。通常、戦争する人は相手のことをよく知らないでしょう。当然銃を構える相手をよく知っていれば引き金を引く事も難しい(余談ですが、麦の穂を揺らす風はこの事を暗に否定している。人はよく知る同胞であろうと、立場さえ与えられれば引き金を引くことができることを、あの映画は描いている)。今二部作は、お互いが同じ島でいながら、全く別種の時間軸を生きる、双方の立場を克明に描いている。お互いが異様な理不尽にさらされ翻弄されていく。アメリカの兵士から見れば、理不尽の一部(その逆もまた然り)としか見れない日本兵にも、異様な理不尽がかけられていることを、お互いの立場を描くことで見せている。

戦後の理不尽「父親たちの星条旗」
先に公開された「父親たちの星条旗」では、主に戦後が描かれる。擂鉢山を陥落したアメリカ軍が、頂上に星条旗を掲げる瞬間の写真が新聞に掲載された。そこにたまたま写っていた兵士三人が、戦費調達のためのPR要因として英雄に祭り上げられる。三人が別段特別な働きをしたわけではない。「たまたま」写真に写ってしまっただけで、各地のイベント会場で熱烈な歓迎を受ける。本来旗を掲げた者は6人。生きて生還したのはその3人。しかも6人の名前はどこかで入れ替わってしまっている。死んだ仲間達の事を思い、現実とのギャップに苦悩が生じる。マイノリティ人種である、アイラは云われない差別をも受ける。白人であるレイニーは、このチャンスを逃すまいとキャリアアップを計ろうとする。自分達の周りを嘘で固められたこの現実の理不尽さに次第に三人を苦悩を深めていく。せっかく戦場から生きて帰って来たのに、この仕打ちはなんなのかと。

戦中、戦前の理不尽「硫黄島からの手紙」
後から公開の始まった「硫黄島からの手紙」は、時間軸は、「父親たち~」よりも前の話となる。というよりは、「父親たち~」の主人公たちに決定的なトラウマを与えた連中のことを克明に描いている。アメリカ兵から見たら悪魔の如き日本兵もまた、異様な理不尽にさらされていた事を、観客は知る。理不尽を三人のアメリカ兵に強いるきっかけとなったのは、ここでも理不尽だった。栗林中将やバロン西は、アメリカをよく知る者たちには、本気をだしたアメリカの国力の前には、日本軍の力などひとたまりもないことは、わかりきっていたはずだ。にもかかわらず、彼らは最も勇ましい日本兵として、無謀な玉砕戦に打ってでる。最後には自決に至るわけだが、彼らのその死には、決して崇高さは宿らない。渡辺謙のラストの自害は象徴的だ。「ラスト・サムライ」と比較するとよくわかる。自害が、仰々しく崇高なものとして描かれる「ラスト.サムライ」とは対照的に「硫黄島~」では実にあっさりと死んでゆく。断じてこの理不尽な戦闘の中に崇高なものなどあり得ない、とでも言いたげな描写だ。加瀬亮演じる元官憲は、戦前の理不尽を象徴する。人間らしく振る舞ったが故に、彼は戦場送りにされてしまう。そして、戦場では誰が死んで、誰が生き残るかは、多分に偶発的だ。結局生き延びることができたのは、必死に生きながらえようとした二宮和也と命令無視をして一人単独行動にでた中村獅童のみ。その二人が生き延びた、というところにいかなる必然性も見出せない。水木しげるの漫画「総員玉砕せよ!」を思いだす。この漫画の前半部に描かれるのは、勇ましい死ではなく、偶然ワニに食われる兵や、魚をノドに詰まらせて死んでしまう者などばかりだ。

構造的理不尽
個人が理不尽にされされている中、その理不尽を強いる国家だけが高笑いしているかのような印象を受ける。しかしながら、人間はそれでも国家を営まなければ生きていけないのもまた事実だ。とすれば、この巨大な理不尽は、「致し方ない」ものということなのだろうか。
この構造的理不尽を抜け出さない限り、歴史は同じことを繰り返す。しかし、最近の日本は、進んでこの構造的理不尽に落ち入ろうとしているように見える。
60年ぶりに掘り起こされた手紙から、僕らはどういうメッセージを受け取るべきか、よくよく考えてみる必要がある。