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映画レビュー「暗いところで待ち合わせ」

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記事初出:2007年03月08日 seesaaブログからの引っ越し

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基本情報
「暗いところで待ち合わせ」(2006、日本)
監督:天願大介(AIKI、無敵のハンディキャップ)
脚本:天願大介
製作:小穴勝幸
出演:田中麗奈、チェン・ボーリン、宮地真緒、井川遥、佐藤浩市、岸辺一徳

公式サイト
http://www.kuraitokorode.com/

今作の原作小説とめいなco.によるサウンドトラックとメレンゲの唄う主題歌「underworld」です。
    

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ストーリーと映画情報
交通事故で視力を失ったミチルは、父と二人で暮らしていたが、ある日父を病気で亡くし、とうとうひとりぼっちでとなる。友人のカズエが時々様子を見に来る以外は、他人との接触のない平凡な生活を送るミチル。ある日、ミチルの家の前の駅のホームで人身事故が起こる。その事件の容疑者として追われるアキヒロは、ミチルの家に忍び込み、気配を殺して身を隠す。ミチルは何か違和感を感じながらも普段通りの生活を心がけるのだが・・・
人気小説家、乙一の同名小説を映画化。田中麗奈のデビュー当時のような初々しさが光る。

小説を映画化すること
小説を原作とする映画は、数多くあります。漫画や舞台を原作に持つ作品よりも圧倒的に多いのはないでしょうか。何故でしょう。小説には、それ自体にビジュアル的な情報が含まれていません。言葉しかないわけです。漫画には絵があり、舞台には生身の役者がその場に存在する。漫画や舞台には明確なビジュアル情報が存在します。ビジュアル情報がないということは、読者はそこに自分のどんなイメージを読み込んでもいいわけです。ビジュアル情報が無いぶん、想像は無限大にできます。対して映画はビジュアル情報で表現する分野です。この二つは正反対のメディアなのですね。そして原作読者は、自分なりの物語のイメージを作っています。しかし、映画は、イメージを映像の中に定着させていかなければいけない。茶色いテーブルとだけ言葉で書かれていたら、読み手は、形もサイズも色の濃さも自分で想像できるが、茶色いテーブルを映像で見せられたら、そのテーブルは事実、そこに映されたテーブル以外ではありえなくなる。映像は、半ば暴力的にイメージを固定してしまいます。ではなぜ、映画化するのか?オリジナル企画より売りやすいからですが(笑)、ただそれ以外に映像の作り手さん達もまた、本を読んで自分なりのビジュアルイメージを頭に思い描いてしまうのです。そして、映像作家は人一倍そのイメージを定着させたがる人種なのです。

原作のイメージを超えるために映画は何をすべきか
今作の原作と映画を比べてみると、いくつかの相違点があります。一番の大きな違いはアキヒロが、原作では日本人であるのに、映画では中国人と日本人とのハーフという設定になっており、日本語もあまり得意ではないという設定になっている点。原作のファンの方はこの点に関して不満を持つ方が多いようです。たしかにこの変更は、相当人物のイメージを覆している。この変更によってもたらされた効果は、たんに人付き合いが苦手で職場に上手くとけ込めないナイーブな青年像だった原作のアキヒロに対し、映画のアキヒロは、職場で孤立、疎外される理由として、言葉の壁や文化の違いからくる差別の要素が入り込むこと。それによってムリヤリ仕事を押し付けられた時の反発心を産む強さの源泉にもなっているようにも見える。異国の地で一人生活するというのは、本当に大変なことです。僕の個人的な意見ですが、この設定変更は良かったと思います。なぜなら、原作のアキヒロは、大胆に人の家に身を潜ませたり、真犯人を自分で探し出そうとするほどに内に強さを秘めた人物に見えにくいからです。アキヒロを演じたチェン・ボーリンのシャープな顔立ちも手伝って様々な理由で孤独を強いられているが、内に秘めた強さを感じさせる人物像を構築している。
第二の違いはミチルの人物像。ミチルの人物像も、映画の方が若干行動的に感じさせる。原作のミチルは、誰か家の中にいると感じつつ、それを声にだすこともできないが、映画では「誰かいるの?」と大きな声を出している。ミチル役に田中麗奈をキャスティングしたこともその変化を大きくしている。「がんばっていきまっしょい」の時のような、純粋だが、芯の強い少女を田中麗奈が好演している。しかし、外と出ることへの恐怖心に心が折れそうになる過程を少ない言葉、すくない表情の変化で良く表現している。
ここで感じるのは、アキヒロもミチルも多少なりとも積極的、或いは強いこころの持ち主に変化しているということだ。ここに映画のキャラクター作りに難しさの本質が一つあるように思います。つまり、あまりに受動的なキャラクターは映像化しづらい、ということです。映画は基本的に、「心の台詞」を使うことはタブーであり、ナレーションの多様もうっとうしいわけです。そもそもそれらは、「言葉」による表現であり、それらを使わなければ表現できないのであれば、わざわざ映像化する意味が無くなります。
第三の違いは、殺される松永の人物像です。原作では割と単純にイヤな男であった松永が、台詞も行動もほとんど一緒なのに不思議と佐藤浩市が演じることによって、奥行きあるキャラクターになっていること。これなら井川遥のような美人がダマされたのも頷ける(笑)
そして物語を語る時間軸も変えている。原作では冒頭すでに父親が死んだ所から始まっているが、映画ではまだ父親が生きていてそれから病死、葬式とミチルが一人での生活を余儀なくされ過程を時系列で追っている。原作では、後からミチルの人物像を補強するような形でそれらのエピソードを使用している。心の台詞を使用できない映画なら、ミチルに対して観客はこちらの構成の方が感情移入しやすい。

大胆な設定変更とキャスティングの妙で原作には含まれていない調味料を加味している。同じ料理違う製法で二度楽しむように楽しむことができる作品に仕上がっていると思います。ただ、原作の味付け以外認めないという方には、その味付けにしっくり来ないこともあるのかもしれませんが。