[PR]

映画レビュ-「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」

[PR]

記事初出:2006年04月03日 seesaaブログからの引っ越し

3burials.jpg

基本情報
「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬(原題:The Three Burials of Melquiades Estrada)」(2005、アメリカ)
監督:トミー・リー・ジョーンズ(逃亡者、メン・イン・ブラック)
脚本:ギジェルモ・アリアガ(アモーレス・ペロス、21グラム)
製作:トミー・リー・ジョーンズ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ぺッパー、フリオ・セサール・セディージョ、ドワイト・ヨアカム、メリッサ・レオ

[PR]

2005年カンヌ国際映画祭最優秀男優賞(トミー・リー・ジョーンズ)、最優秀脚本賞受賞

公式サイト
http://www.3maisou.com/

ストーリーと映画情報
テキサスで働くメキシコ人カウボーイ、メルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)が銃殺体となって発見された。親友のピート(トミー・リー・ジョーンズ)は変わり果てた姿となって発見された友を見て憤激し、犯人探しに乗り出す。やがて犯人は赴任してきたばかりの国境警備員のマイク(バリー・ぺッパー)であることが判明。ピートはマイクを拉致し、メルキアデスの死体を掘り起こさせ、メルキアデスの故郷、メキシコに向かう。生前、彼と交わした約束、「オレが死んだら故郷のヒメネスに埋めてくれ」を果たすため。
逃亡者などでお馴染みの俳優トミー・リー・ジョーンズの初長編監督作品。
2005年カンヌで絶賛され男優賞、脚本賞を同時受賞。

トミー・リー・ジョーンズ監督が今作品を作るに当たって影響を受けたと語る、サム・ペキンパー監督作品「ガルシアの首」です。参考に今作品と比較してみては。↓

時間軸を解体する手法の効果とは何か
「アモーレス・ペロス」や「21グラム」で知られる、この映画の脚本家、ギジェルモ・アリアガは、時間軸を解体した本を書くのを得意としています。この手法を用いた作品の代表例は、古くは黒沢明の「羅生門」、最近では、タランティーノの「パルプ・フィクション」、「メメント」などでしょうか。大抵の場合、この手法は、見る人を混乱させます。黒沢明の「羅生門」の場合は大元の時間軸は、大雨の中、老人が回想(この回想シーンは時間通りに語られない。三人の証言者の意見がそれぞれ食い違い、それをさらに回想シーン再現していく)するという方法を採っているので、さほど混乱はないのですが、最近の作品の中には、大元のストーリーさえバラされていて、全体を把握するのに非常に手間取る作品も多々あります。
でも、それでいいんです。この手の作品を観賞する時は、混乱してしまって構わないんです。混乱したまま、断片的に提示される情報に身を委ねてしまえば良い。むしろ、作り手の意図はそこにこそあります。混乱させ、観る人を思考の呪縛から解き放つために、作り手達はそういう手法を用いているのです。

思考しても届かない世界がある
しかし、なぜ思考からときはなたれなければいけないのでしょうか?著名な社会学者であり、映画評論のお仕事も頻繁にされる宮台真司さんの言葉を引用しながら考えてみたいと思います。(この記事は宮台さんのブログhttp://www.miyadai.com/にTBしています。)彼によると、社会とはコミュニケーション可能な物の全体。世界とは、ありとあらゆる物の全体であり、そこにはわけの分からない物が溢れているとされます。世界の根源的未規定性に触れさせてくれる、或いはそれを匂わす作品を彼は好んでなのか、戦略的に「あえて」しているのかわかりませんが、よく紹介しています。なるほど、この映画は、そうした理解不可能な描写に溢れています。さらに時間軸をズラす物語構成がそれを助長する。要するに、「人知を超えた何か」をこの映画は、指し示しているということです。以下に宮台さんの文章を引用させていただきます。宮台さん、勝手にごめんなさい。

■主人公が屍体を粗末にするなと怒った後、屍体にたかる蟻を撃退すべく酒をかけて燃やす処(屍体を大切にするんじゃ?)。蛇に噛まれた犯人を治療する女が、かつての復讐から犯人に煮立ったコーヒーをかけたあと一緒にトウモロコシの皮を剝く処(憎んでいるんじゃ?)
■「死んだらヒメネスに埋めろ、これが妻子の写真だ」という故人の言葉を頼りに道中する主人公が、ヒメネスという町はなく、写真の女も只の「憧れの女」で、メルキアデスという名が嘘だと判っても、些かも動ぜずに道中を続ける処(観客は全く先が読めなくなる)。
■圧巻は、緊迫した国境越えの後、調律の狂ったピアノの『別れの歌』が流れる極彩色の露店で、米国に残した浮気相手の亭主持ち女に、主人公が電話で結婚申込をして断られると、背後の備え付けのTVに1950年代のSF映画がオンエアされている処(なぜ…?)。
■女は年老いた亭主から(予想外に!)離れず、犯人を家で待つ妻は(予想外に!)いずこかに旅立つ。そうした出鱈目(砕け散った瓦礫!)の背後に、荒れ果てながらも美しい不動の荒野が拡がる。そして我々は思う。「そう、確かに〈世界〉はそうなっているよな」と。

これらの断片的なデタラメな部分こそが、世界が瓦礫の山であり、説明不可能な世界の存在を信じさせてくれると宮台真司さんは云います。

デタラメ、されど構成された世界
僕は基本的に、時間軸を解体するスタイルはやりません。理由はオーガナイズしにくいから。以前自分で脚本を書く時、この時間軸をズラす構成に挑戦したことがあります。やってみた感想は、どうもやりにくい。というより自分の書いた物に振り回されている感じがしてしまう、のでその挑戦は一度きりで終わりました。どれだけ、自然に見える作りをしていたとしても、映画は誰かの手によって作られた「造り物」です。どれだけ世界の根源的未規定性を描いてたとしても、それもまた作家の手によるものです。ここで一つわからないことがある。世界は社会を超えたありとあらゆる物の全体。そこにはコミュニケーション不可能なもの、人知を越える理解不可能なものが瓦礫の山のように連なっている。そうした「世界」をいかに人間が表彰可能なのか?
自分でシナリオを書いていてわかることは、自分にオーガナイズできないもの、自分の知らない、或いは未経験なものはシナリオ上に生き生きと描写することが困難であることです。もちろん、僕は未熟な人間なので、単に僕の力が足りないだけかもしれませんが。
しかし、仮にコミュニケーション不可能な世界があるとして、それをこうして映画という形で具現化してしまえば、それはコミュニケーション可能な社会の一部に堕してしまうのでは?現に宮台さんは、そうした作品と充分コミュニケーションしているように僕には見えます。そして、僕には、今の所、作り手としてコミュニケーション不可能なもの、人知を超え瓦礫に山をオーガナイズして一本の作品として完成させることができると信じることが出来ない。映画である以上、作り手は物語に振り回されず、オーガナイズしなければいけないはず。宮台さんの云うことは、映画やその他のサブカルチャーの「受け手」として自分を置いた時は、非常によくわかるんですが、自分を「作り手」と過程した場合、そんなことがあり得るのか、と思ってしまう。
単に僕の勉強が足りないだけだろうか。。。。

長くなりましたが、とても面白い映画なので、是非観てみてください。
マイク役のバリー・ペッパーはこれから注目の俳優ですね。非常にいい味をだしています。それからテキサス・メキシコ国境付近の雄大な自然美も見所の一つです。それにこれだけメキシコ人をフューチャーしたアメリカ映画は割と珍しいですね。今、ラーメン屋のキッチンでメキシコ人達と一緒に仕事していますが、彼らはいつでも明るくていい連中です。英語がほとんどしゃべれないのでコミュニケーションに困りますが(笑)

※宮台さんは「CRASH」を予定調和的で辟易したと書いていますが、あれがそう単純に予定調和的なストーリーとは、僕は思いません。むしろ、予定調和的に見えるストーリーを最後の雪によって見事に否定してみせた、というのが僕の解釈です。あれの舞台が東京やNYなら雪もただの予定調和の産物になりますけどね。
詳しくは、こちらの「CRASH」のレビューに書きました。