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映画レビュー「大日本人」

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記事初出:2007年11月13日 seesaaブログからの引っ越し

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基本情報
「大日本人」(2007、日本)
監督:松本人志
脚本、松本人志、高須光聖
製作:岡本昭彦
出演:松本人志、UA、竹内力、神木隆之介、板尾創路、海原はるか

2007カンヌ国際映画祭監督週間正式出品作品

公式サイト
http://www.dainipponjin.com/

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ストーリーと映画情報
とある冴えない男がTVクルーの取材を受けている。名は大佐藤。彼の職業はヒーロー。獣が現れた時には、巨大化し、こん棒を持って立ち向かうのだ。先祖代々続くこの家業は、かつては人に崇められる存在だったが、現代では疎まれている。そんな大佐藤の日常をカメラは捉えていく。笑いの求道者、ダウンタウンの松本人志の第一回監督作品。

「映画」という枠組みは何を指す?
・この作品を、人に紹介する時、必ずこう云うようにしている。「映画として見るんじゃなく、コントを二時間見るつもりで見るように」と。この作品は、いわゆる皆が映画だと考えているものを提供しない。松本氏自身もTVなどで自分がやってきたことの延長線上にあるものだと語っている。
・様々な所で酷評されているこの作品。その大部分は、「これは映画ではない」という類のものだ。たしかに、この作品は映画館で上映されていたという事実を除けば、およそ映画らしいものは見つからない。
・松本人志の笑いは「脱臼」である。本来の言葉や様式の持つ意味に絶えず「ズラし」を与えることによって、意味を破壊する。故に彼の笑いは時に意味不明な印象を与えることがある。ガキの使いの笑ってはいけないシリーズは、笑わせる事を目的としいるお笑い番組の趣旨を脱臼した企画と云える。脱臼の典型的な例は、ガキの使いのフリートークだろう。聞いてもしょうもないハガキの質問に、松本が意表を突く、というよりも敢えて聞きたいことから離れたことを答えとして返す()。そんな男の作った映画である。そもそも「映画」を期待する方が間違っている。
・しかし、そもそも映画とは、何をもって映画となるのか。我々は確かに「これは映画だ」という漠然としたイメージは持っている。約2時間の濃密なストーリーを映像上で展開した何者かを我々は映画と呼ぶ。何が映画なのかについて、はっきりとした定義はない。故に映像作品であれば、本来どんなものでもスクリーンで上映されさえすれば、映画足り得る。そう。何が映画なのかを決める権利など、実は誰にも無い。

映画に対するイメージを脱臼する
・物語は、架空のドキュメンタリー形式で進む。それ自体は珍しくもなんともない。ブレアウィッチプロジェクトなどと同じ手口だ。主人公の大佐藤は、ある種のヒーローであるとされているが、ヒーローに従来ある格好よさは、微塵もない。電流を流すと巨大化するこのヒーローは、一旦大きくなると、元の大きさに戻るまで数日間を要する。ここに松本の脱臼の美学を感じる。「巨大化するヒーロー」という完全ファンタジーな設定のものに、元に戻るのにエラい時間がかかるという妙なリアリティを追加してしまう。しかも、その戦いの模様は深夜に放送され、視聴率をきにしなくてはならない。しまいには、胸や背中に広告を背負わなければ給料が発生しない。本来、ヒーローのような存在は、そんな現実的なわずらわしいものから、解放されたとこに存在する。それゆえに、人はそこに夢を見ることができるのだが、松本は、そうしたヒーローの需要のされ方そのものを脱臼している。
・様々な議論を呼ぶ、あのラストシーン。映画であれば、誰もが結末にむけて大きな展開を期待し、ある種のカタルシスを求めるであろう。起承転結、序破急、いろいろ呼び方はあるが、「普通」の映画は、結末に向けて周到に計算し、カタルシスを得られるように作るだろう。しかし、この作品のあの、作品全体を打ち壊すかのようなラストは、映画に対するイメージに対する、ある種の挑戦だ。本編で投げかけられた疑問にあのラストは、一つも答えていない。まるでガキの使いのハガキに対する回答のように。しかし、映画は最後にしっかりと答えを出さねばならないなどと、一体誰が決めたというのか。単に我々は漠然とそれを信じているに過ぎない。松本は、ここで映画そのものを脱臼しようと試みている。

映画とは何か、この問いに厳格な答えを見出し、映画に一定の枠組みを与えてしまった時、映画の進化は止まる。進化の停止は死と同義だ。映画も100年を超える歴史を重ねた。こういうものが映画なんだろうと、漠然とした共通理解がすでに出来かけていたこの時代に、あのような作品を発表することは、常人には出来ない。そのことだけでもこの作品と松本人志を評価する価値はあるのではないか。