記事初出:2007年11月04日 seesaaブログからの引っ越し
基本情報
監督:河瀬直美(萌の朱雀、火垂、沙羅双樹)
脚本:河瀬直美
製作:河瀬直美
出演:うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子
2007カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
公式サイト
http://www.mogarinomori.com/
河瀬監督の代表作「萌の朱雀」と「沙羅双樹」です。
ストーリーと映画情報
幼い息子を亡くした若い介護へルパー、真千子は、奈良の山奥にあるグループホームに就職する。そこには、認知症を持つお年寄りが介護士と共に静かにくらしている。そのうちの一人、しげきは亡き妻との思い出の中に生きている。ある日、妻との思いでの詰まったバッグを何気なく手にした真千子をしげきが突き飛ばす。その日を境に真千子は自身を失いかけるが、しげきとの触れ合いのなかで次第に自身を取り戻していく。そして、ある日二人は、しげきの妻の墓参りに行くことにする。しかし、山の森の奥深くにあるその墓に向かう途中、二人は多くの困難に突き当たる。。。。
「萌の朱雀」でカンヌ映画祭新人賞を最年少で受賞した河瀬直美監督が、今作で同映画祭グランプリを受賞。
河瀬直美という映画作家
河瀬直美は、映画の作り方を知らない。誤解しないで欲しいが、これは彼女を絶賛するための言葉だ。河瀬監督は、通常の映画文法に乗っ取って映画を撮ることをしない。彼女の長編デビュー作であった、「萌の朱雀」では、國村隼扮する父親もやたら唐突に自殺してしまうし(情熱を傾けていた鉄道工事の計画が中止になったため、とパンフや様々な解説文にはあるが、映画そのものから読み取る事は、いささか難しい)、火垂では豪雨のシーンなのに、画面の奥の方は完全に晴れてしまっている。普通ならあんなシーンは使い物にならない、と判断する。今作でも、突如、森の中で豪雨に見舞われるシーンがあるが、やはり画面の奥の木や葉に雨が当たっていない。しげきが川を渡るシーンで挿入される激流のようなイメージカットもあまりにも稚拙な挿入のされ方だ。ストーリー構成も行き当たりばったりな感がいなめない。所謂シネフィルを自称するような映画オタクには、最も苦手なタイプの監督であろう。
しかし、それでも河瀬監督の作品は傑作だ。所謂シネフィルの価値基準とは別に評価基準があるからだ。シネフィルの基本的な考え方は、「全ての映画は既に撮られてしまっている。故にオリジナリティーというものは存在せず、コピーと反復しかできない」というものであり、故に過去の映画を見て、批評して分析しなければならない、というものです。ウォルター・ベンヤミンは、映像のような複製芸術にはアウラが宿らない、と云った。アウラとは事物から発生する唯一無二の雰囲気や空気を指す。シネフィルの基本概念はこのベンヤミンの思想やマルセル・デュシャンの同様な指摘に端を発すると思われる。しかしながら、河瀬監督の作品には、他の映画作家の作品からは感じ得ないような、異様な雰囲気がある。それはアウラとは呼べないだろうか。
何が唯一無二のものを創るのか
彼女が映すものは、自身が生まれ育った奈良の自然であり、そこに暮らす市井の人々である。基本的にプロの役者ではない人を彼女は起用する。役者は、自分以外の誰かを作り上げる。そこに本人の持つ空気があってはいけない。対して、演技のできない素人を映画に起用することは、その本人の持つ空気をまさに映画に取り込むことを目的とする。映画前半のグループホームの老人たちのつぶやきは、おそらく脚本として起こされた文字を云わせたのではなく、インタビューか何かで、本人達が云ったものをそのまま使用しているのであろう。通常の「反復」された台詞とは明らかに違う重みを帯びている。本物の老人、本物の自然、それらが彼女の作品にアウラをあたえているのだろうか。おそらくそれだけではないだろう。彼女自体の映画製作に対する姿勢にも起因するのではないか。彼女は決して自分のグラウンドである場所から離れて映画を作ろうとしない。云うなれば、彼女は、自分のアウラを構成しているもののそばでしか映画を撮らない。それが、作品にパーソナルな雰囲気を映画全体に与えているのではないか。途中の作りが稚拙だろうと何だろうと、映画全体にその「アウラ」が宿っていることが大事なのだ。逆にどこかの映画を見て学んだ技法などを取り入れたら、返ってそのアウラは消失してしまうかもしれない。人によっては、その姿勢は観客のことを考えていない「マスターベーション」と捉えるだろう(実際にそういう評価はネット上に多い)。しかし、マスターベーションと呼ばれるほどにパーソナルな物を普通、人間は人にさらすことなどできない。そうでもしなければ、映画という複製芸術にアウラを宿らせることは出来ないのではないか。
河瀬直美は、シネフィルに対して強烈な挑戦状を叩き付けている(本人は意識していないだろうが)。複製技術である映像を用いて、存在のオリジナル性を探そうとする河瀬監督の探求は、オリジナルであることをあきらめた今日の映画という複製芸術の可能性を広げるかもしれない。