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映画レビュー「ツォツィ Tsotsi」

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記事初出:2006年05月15日 seesaaブログからの引っ越し

tsotsi.jpg 基本情報
「ツォツィ Tsotsi」(2005、南アフリカ)
監督:Gavin Hood
脚本:Gavin Hood
製作:Peter Fudakowski
出演:Presley Chweneyagae、Mothusi Magano、Percy Matsemela

公式サイト
http://www.tsotsi-movie.com/(日本語)
http://www.tsotsi.com/english/index.php(英語)

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2005年アカデミー最優秀外国語映画賞受賞

ストーリーと基本情報
南アフリカ一の国際都市ヨハネスブルグ。世界最悪の犯罪都市とも云われるこの街に生きる19歳のTsosi(ツォツィ)は、この街のギャングのリーダー的存在。ある日、彼は仲間との諍いの後、近郊の高級住宅街に迷い込み、車を奪おうと試みるが、運転していた女性を誤って撃ってしまい、そのまま車を奪って逃走する。しかし、その後部座席には生後間もない赤ん坊が乗っていた。TSotsiは、しかたなく、車を捨て、赤ん坊を抱えスラム街へと戻っていくが、赤ん坊の扱い方もしらない彼は途方にくれる。女性宅に押し入り、ミルクをあげることを強制し、なんとか赤ん坊と共に暮らしていくうちに、今まで人の命など何とも思わなかったTsothiの心に変化が生まれていく。
アフリカ映画としての初のアカデミー賞受賞作。
Kwaito(クワイト)と呼ばれる南アフリカ独特のヒップホップに載せて、パワフルなストーリーが展開する。TSotsiとは南アフリカのスラングで「チンピラ」、「ギャングスター」等の意。

今作品のサントラと原作(英語)です。アフリカの民族音楽とヒップホップを融合させた「クワイト」をフィーチャーしたこのサウンドトラックは、聴く価値ありです。
 

今アフリカもようやく声を上げ始めたのだろうか、アフリカ自身の手で。
非常に興味深い映画だと思う、いろいろな意味で。まず、アフリカ映画自体がなかなか観るチャンスが無い。僕らが普段、アフリカという地域に出会うチャンスは、動物のドキュメンタリーや紛争や貧困、飢餓の悲惨さを伝えるニュース映像が主だろう。この作品は小説(もちろん著者は南アフリカ人)をベースにしたフィクションであり、言語も現地の言葉を使って撮影されている。監督も南アフリカ出身だ。南アフリカで経済発展した都市であるヨハネスブルグのリアリティを生々しく映し出している。約700万人もの人が電気も水道も通わない掘ったて小屋で暮らし、その遠景には新宿並の高層ビルが立ち並ぶ。経済は人口の一割の白人に牛耳られ、アパルトヘイト廃止後も、人口七割に及ぶ黒人達の大部分は職を得ることができず、犯罪に走ってしまった。まさにこの映画で描かれる街は、常に死と暴力と隣り合わせの世界だ。
そんな街物語として紹介しただけでも価値がある作品だ。物語には、ドキュメンタリーやニュースとは違ったリアリティの写し方があり、見る人によりそこに生きる人の心象風景に近づけることができる。しかも、南アフリカ人自身の手によって。最も監督はアメリカに留学した白人であり、原作者も白人だ。そして、どうやら資本はイギリス資本のようだ。
今、アフリカ映画界も声を上げ始めた。確かにそれは先進国の人間が代弁したものではなく、彼ら自身の声のようだ。だけど、声を上げる舞台を提供したのは、やはり先進国側の人間なのだ。別にそのことをくさす必要は無いのかもしれないけども。

何故貧困と犯罪があるのか
電気も水道も無いスラム街がある一方、このヨハネスブルグには近代的な空港や高層ビルもある。少し郊外には防犯セキュリティもついた豪華な屋敷もあり、Tsothiはそこに迷い込み赤ん坊を連れてきてしまう。荒れ果てた何もない荒野を通り抜け、Tsotsiが戻るスラム街は完全に別世界に見える。その悲惨さに目を奪われると同時に僕にはある疑問が浮かびました。「何故、こうようなからさまに違う光景が成立するのか?格差社会などというレベルじゃないぞ、これは」

2002年ヨハネスブルグ地球環境サミットで「持続可能な開発に関するヨハネスブルク宣言」が採択されました。しかし、先進国は自由貿易とグローバル化の促進が貧困の根絶につながる、という姿勢を崩さず、再生可能エネルギーへの切り替えの具体的数値目標も何一つ採用されないまま終わってしまった。サミット会場の外では、多くの現地の人々がデモのなかで「このサミットは我々のためでもなんでもない。金持ちのためのサミットだ!」と叫んでいたようです(videonews.com参照)。サミット会場のすぐ近くには、Tsotsiのように多くの人間が、およそ人間らしい生活を送ることが出来ない中、豪華な建物のなかで、クーラーの効いた部屋で各国の首脳たちが出来レースを行っていた。そこでは今後、先進国はますますグローバル化を押し進めるという方向性が明確に打ち出されたと云える。グローバル経済の最大の問題点は、南北問題をますます助長してしまうことだろう。先進諸国は世界市場での競争に打ち勝つため、安価な原材料と安価な労働力を必要とするので、それら多くを発展途上国から搾取せねばならない。たしかに経済のグローバル化にによって最貧国に数えられる国自体は減ったが、代わりに発展途上国間の経済格差が広がっている。経済成長に成功した途上国はいいが、資源を持たない等の理由で発展に失敗した国は、ますます貧困になっていっている。グローバリゼーションはこうした絶望的な皮肉を必然的に内包している。
まるでこの映画の中で描かれる光景は。そうした矛盾を一望できるかのようだ。生まれたばかりの無垢な命に触れ、初めてもがき苦しむ19歳の少年を横目に、超高層ビルが悠々とそびえ立っている。

残念ことに、そうした構造的な問題には、この映画は一切触れていない。それは二時間程度の映画にこれほど巨大な問題を語らせるのは無理だというのも理由の一つだが、もしかしたら、資本が先進国側の資本だからというのも一つ理由としてあるのかもしれない。憶測にすぎないのだけども。結局先進国の資本では、先進国の生み出す構造的矛盾を指摘することは難しい。やはり本当にアフリカ自身の手で語られなければいけない問題なのだろう、これは。ただ、自身の手でそれを語るには、自助努力によって製作しなければならない、自助努力によって声を上げるには、力をつけなければいけない、力をつけるためには競争に勝たなければいけない、そして競争に勝つためには経済発展が必要不可欠、だがその経済発展をするには、自由貿易競争の中に身を投じなければいけない。

。。。問題の根はあまりにも深い。だけど、とりあえず、行動を起こすには現実を知ることから始めなくてはいけない。この映画は、その現実を知るためには、非常に有益な作品だ。