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映画レビュー「僕を葬る」

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記事初出:2006年07月27日 seesaaブログからの引っ越し

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基本情報
「僕を葬る(Time To Leave)」(2006、フランス)
監督:フランソワ・オゾン(スイミング・プール、8人の女たち、まぼろし)
脚本:フランソワ・オゾン
製作:オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ
出演:メリヴィル・プポー、ジャンヌ・モロー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ

公式サイト
http://www.bokuoku.jp/

ストーリーと映画情報

パリの売れっ子カメラマンのロマン(メルヴィル・プポー)は、仕事中に突然倒れ、医師に余命三ヶ月と宣告される。家族と仲違いし、ゲイの恋人とも別れ、その事実を祖母(ジャンヌ・モロー)以外に打ち明けることなく、ロマンは一人孤独に、自らの人生を振り返る。そして、彼は最後に何かを残そうとある決意をする。
フランソワ・オゾン監督の「まぼろし」に続く、死の三部作の二作目にあたる作品。

死の三部作の一作目の「まぼろし」です。主演のシャーロット・ランプリングがとにかく素晴らしいですね。

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死を描くことの困難さ
云うまでもないことですが、僕たちは「死」を体験する時、その死は必ず他人のものでしかありません。人は自分の死を体験することができない。死とは、誰にでも与えられるものであり、人間の人生の中核に位置するといって良い存在なのにもかかわらず、それは常に周辺的にしか体験することができないものです。家族や友人など近しいものが死ぬ時もありますし、死のイメージは映画や漫画、小説などにも溢れるように生産されているわけです。まあ、体験するときは、死ぬ時なわけですから、体験できるわけはありませんね(笑)
映画を作る際、リアリティを作り出す時に、最も参考になるのは、これも云うまでもないかもしれませんが、自らの体験です。その時の感情、そこから来る表情や動きなどをどう再現すればいいかは、体験があるとないでは随分違う。
ここに死を描く難しさがあります。自ら体験不可能なものを、いかにリアリティを持って描くのか、そこに作家の力量が問われることになるわけです。

まぼろしと今作品の決定的な違い
フランソワ・オゾン監督の死の三部作の二作目というふれこみである今作品。前作「まぼろし」では、愛する者の死に直面する女性を描いた作品であったのが、今回は主人公自らが死に直面する形をとっています。前述した死を描く困難さから云ったら、これはかなり大きな違いです。僕らは、近しい者の死などの周辺的な死な体験可能だが、直接に死を体験できない。ゆえに、近しい者を失った悲しみをリアルに表現するのと、自らの死の孤独を表現するのとでは、その困難さには、雲泥の差がある、ということです。そして、それは作り手側だけではなく、観る者にとっても、判断が難しくなる。当然映画を観賞する際、どんなテーマを扱う映画でもその映画に近い体験を持つ者ならば、自らの体験を照らし合わせつつ観てしまうだろう。そして大概それは普通の映画鑑賞よりも濃密な観賞となる。ところが、やはり観客もまた、自らの死を体験できない、近しい者を失った者の悲しみは体験できたとしても。「まぼろし」で夫を失った中年女性の心の機微をあれだけ見事に描き出したオゾンでさえ、やはり自分に迫り来る死を想像することは難しかったのだろう。「まぼろし」の方が格段に優れている。ある中年カップルの頼みを聞き入れるのも、自らの子孫を残したくなったということなのだろうけども、いかにもな感じは否めない(ただ、その描写方法は、まことにオゾンらしいのだけど)

しかしながら、映像の美しさ、ジャンヌ・モローの枯れつつも女らしい存在感や「三人セックス」など、この映画は充分に観賞に耐え得る秀作です。このプロットはそもそも、あのオゾンにですら、扱うには困難なものだっただけです。次回作は、子供の死を扱う予定だという。そこでどのように「死」を描くのか、期待したいと思います。