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映画レビュー「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

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記事初出:2007年11月18日 seesaaブログからの引っ越し

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基本情報
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(2007、日本)
監督:吉田大八
脚本:吉田大八
原作:本谷有希子
製作:柿本秀二、小西啓介、鈴木ゆたか
出演:佐藤江梨子、佐津川愛美、永瀬正敏、永作博美

2007カンヌ国際映画祭批評家週間正式出品作品

公式サイト
http://www.funuke.com/index.html

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今作の原作小説です。

ストーリーと映画情報
両親の訃報を受け、女優を志す澄伽(すみか)が、上京以来初めて帰郷する。兄の宍道(しんじ)は異様に澄伽を気使い、妹の清深(きよみ)は戦々恐々としている。宍道の嫁、待子はこの家族の事情を知らず、快く澄伽を向い入れる。しかし、美人だが、傲慢を絵に描いたような正確の澄伽は、宍道に無理難題を云い、清深に対して度を超えた暴力行為を繰り返す。澄伽の横暴な振る舞いには、理由だあった。それは澄伽が上京する前、清深が描いた姉に関する漫画だった。その漫画を公表されたせいで、皆が異様な目で自分を見るようになり、演技に集中できず、特別な人間である自分の才能が発揮されないというのだ。澄伽の妹に対する理不尽な暴力が続く中、澄伽はある映画監督と文通を始め、遂には映画出演のオファーの話が舞い込む。それを境に暴力をピタリと止める澄伽だったが、事態は思わぬ方向に向かって行く。
独自の世界観を展開する新進気鋭の作家、舞台演出家、本谷有希子原作のブラックユーモア溢れる人間ドラマ。

去勢できぬ主人公
人間には、二つの視点がある。客観と主観だ。人間はだれしも、小さい時には、万能感に包まれている。それが成長していくにつれ、周囲との関わりや経験の中で、出来ないこともある、という事を認識していく。この過程を精神分析の世界では、「去勢」と呼ぶ。万能感溢れる主観に、それをあきらめさせる客観が入り込み、健全な自己イメージが形成されていく。そうして人は大人になっていく。去勢に失敗した人間はいつまでも存在な自己イメージを捨てることができず、誇大妄想にとらわれてしまいやすくなる。
今作の主人公、澄伽はまさに去勢に失敗した典型的な人物として描かれる。

「あたしは絶対、特別な人間なのだ」のキャッチコピーが示す通り、澄伽は、自己の中に強烈な万能感を抱えている。その強烈な自意識は、周囲の評価を撥ね付けてしまう。田舎の中では一際目を引くであろう、その美貌が災いして、尊大なプライドが形成されてしまったのだろう。台詞を憶えて来ず、オーディションに落とされようが、事務所を解雇されようが、高校の舞台であまりの大根芝居ぶりを笑われようが、全ては、周りにせいにできてしまうほどに、彼女は万能感を持ってしまっている。そんな彼女にとって唯一、自己イメージを破壊させる出来事があった。妹の清深が自分のありのままをホラー漫画として公表したのだ。その結果、澄伽は逃げるように上京する。周囲からの嘲笑をものともしない彼女が、漫画に関してはなぜこれほどダメージを受けるのか。漫画という誌面に起こされた自分の姿は、否応無く客観を彼女に突きつけてしまったからだろう。人は、写真で自分の姿を見るより、鏡で自分の姿を直接見る時の方が、自分を格好良く思ったりキレだと思うものだ。鏡を見るのは主観で、写真を見るのは自分の姿であろうと客観だからだ。
澄伽の尊大な、モロいプライドは、崩れかけるが、それを食い止める方法を、彼女は二つ思いついた。一つは兄の宍道に全面的な承認、包括を求めること。もう一つは、上手くいかない事は、全て妹の漫画のせいにすること。田舎をださい家族を否定している澄伽は、ある意味である意味で兄と妹に依存していると云える。兄に必要とされることということで、自分の存在意義を確かめるという点と、妹の漫画のせいにすることで、自分には才能が無いという事実から逃げることができるという点において。妹の清深も、姉にたいしてある種の感謝をしているだろう。彼女は、脅迫的に自分を押さえ込んで生きている。しかし、彼女の奥底には、異様な表現欲求がある。その事気づいたのは、姉の異様な行動を目の当たりにした時。妹は姉に自分の本性に気づくきっかけをもらったのだ。

姉は、理不尽な暴力を振るいながらも、妹の漫画のせいにしてかろうじて尊大なプライドを保ち、妹は暴力に振るわれながらも、「最高に面白い」姉の言動を見る事によって、ますます表現意欲を高めていく。。。
見事なくらいねじ曲がった姉妹の共依存だ。

しかし、もう少し佐藤江梨子の芝居が上手ければ。。。。。
はまり役だとは思うけど。